映画「のだめカンタービレ最終楽章後編」観てきました
レディースディ逃すわけにはいかん!と言うことで、『のだめカンタービレ最終楽章後編』観てきました^^
良かったですよ~~~
前編はオケたっぷりで、それはそれでよかったんだけど、ランラン=のだめをもう少し聴きたいなあ・・・と思ったんですが、
後編は、ランラン=のだめがたっぷりてんこ盛り(笑)
ピアノ弾き的にはおいしかったと思います^^
ここからなぜかコミック中心の話(^^;;;
のだめカンタービレの主人公って誰なんだろう・・・と、コミックを読みながらよく思っていました。
のだめはほぼ、心の内を語ることがない。音声として出てくる言葉としては語られるけど、独白やト書きはほとんどない様に思います(私の勘違いかもしれませんが)。
千秋先輩は、もう独白まっしぐらといっていいほど、心の内を語る。
もちろん、誰が主人公か・・・といったことが非常に重要であるとは言い切れない。
作者は、登場人物を通して、作者の語りたいことを語っているのだから。
誰が主人公かと言うことは、その曲が何調であるかということと似通っているように思う。
調を知る・・・と言うだけならば、さほど重要ではないと思う。
例えば、ニ長調だと知ったとき、自分の中にあるニ長調へのイメージ、バッハだったらバッハがニ長調にこめた意味(これは学習しだいなのだが、あまり勉強していないのでよくわからないです。どんな作曲家にもあることなのでしょうね)を、考えることは重要だと思う。
そして、その調や和音がどんな風に変化していくか・・・ここでドッペルで、転調して、終止してetcetc・・・これはとても重要なことだと思う。
自らの心の内を語らない主人公・・・思い出すのは「指輪物語」のフロドだ。
もちろん、双方共、主人公であるかどうかは、色々意見があることだと思う。
フロドは、特にモルドールに入ってからは、ことごとく心の内を語らない。語らせてもらえない。或いは、語ることを許されない。
指輪とのだめは、もちろんまったく違うが、のだめとフロドの扱い方には、どこか似通ったものを感じてしまう。
心の中を語りまくる人物が、すぐそばにいる(千秋先輩とサム)と言う点でも似通っているし、
その人物を通して、心の内を語らない登場人物を見続け、推察すると言う点でも、シンパシーを感じてしまう。
私自身は、フロドものだめも主人公だと思っている。
↑の、調の話に絡めると、誰が主人公ー何調であるかが非常に主要なテーマであるとは思っていない。
ただ、何調かを知ったとき、自分の中におこるイメージー主人公が誰であるかによるその物語に対するイメージは、のだめの言葉を借りていえば「どう感じるかは自分のもの」
そして、その調がどんな風に変化して行くかーその登場人物が(主人公として)どんな風に変化していくかは、とても重要なことだと思う。
のだめが、コミックの最後に語る音楽への思い・・・もしかしたら、すごくシンプルなことかもしれないけれど、のだめ自身の感じ方はきっと、私の思っているよりずっと濃いんだろうな。そして、そこへ至るまでののだめの変遷が、きっと作者の語りたかったことなんじゃないかな。
映画に戻ります。
以下、ねたばれを含むので、折りたたみます。
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